平成12年2月23日
先週末、東京出張の移動時間を使って「宮本 武蔵」(司馬 遼太郎)を読みました。今から14年前、私が松下政経塾を受験する際の入塾案内で、「どんな人間を育てたいですか」との問いかけに、松下幸之助氏は「そうやな、宮本 武蔵のような名人を育てたいな」と答えていたことが妙に記憶に残っています。その時は、「幸之助さんは時代劇の見すぎだな」としか思わなかったのですが、今になって政経塾の真価が問われる中で気にかかる言葉だったのです。
宮本 武蔵は、兵庫県境に近い岡山県北東部の宮本村で生まれ、62歳で細川家の客分として熊本市で亡くなっています。13歳の時から60回近い勝負をしています。関が原の戦いには17歳で参陣しています。21歳、京都で吉岡一門(室町兵法所)を倒し、有名な佐々木小次郎との試合は20代後半です。主な試合は30歳まで、それ以後は試合を避けており、彼の後半生はしかるべき地位を求めての仕官運動、「緩慢な悲劇」(司馬 遼太郎)だったようです。
幸之助氏が注目した点は、@生涯、師をもたず独力で技を磨いたこと、A剣の勝負からえた知恵を、哲学的な「五輪書」に仕上げていること、ではないかと思います。
私が感銘を受けたくだりを紹介します。「仏神を貴んで仏神を恃まず」(恃む心の弱さこそ兵法世界における敵)、「わが心に櫛をもて」(髪をすく場合、毛の結ばれたあたりがすきにくいが、それを何とかといていかねばならない=敵について不明の部分を残すな)、「待の先(まちのせん)」(敵が打ちかかろうとするその拍子、敵は怒りを含んでいるためその気魂の充実が一瞬抜け、秒の何分の一かの刹那に体が崩れる、そこを打つ)、「三尺幅の橋」(理屈からいえば渡れねばならぬはずのものが、臆病の心や雑念がそれを渡らせぬようにする、そういう臆病や雑念を吹き払って本心を不動のものにするのが兵法の修業)、「間合いの見切り、こそもっともかんじんである、極の極の極意といっていい」、「これで勝てる、しかし兵法のむつかしさは、何分かの運がまじることだ」。
「自修自得のこと」−政経塾の塾訓の一つです。生涯、師をもたず自ら命をかけて兵法を仕上げた宮本 武蔵、幸之助氏自身の生い立に重なる部分も多々あります。私も明日で37歳になりますが、このこともう一度考えてみたいと思います。
(今週の活動)
2月14日(月) 学校施設の有効利用検討
2月15日(火) 出島地区埋立て問題研究
2月16日(水) 故宮会
2月17日(木) デイベート講義(白竜湖)
2月18日(金) 建設委員会
2月19日(土) 海自幹候36期同窓会
2月20日(日) 東京
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