こうじマガジンNO.203 (2008.10.8)  

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こうじマガジン NO.203

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「2008年9月28日から2008年10月4日までのダイアリー」



●●2008年9月28日●●


「第38回宇品地区町民大運動会。 」

先週の日曜日雷雨のため延期となった宇品地区町民大運動会が、
無事朝9時から開会しました。天気は曇り。
「涼しくて競技が楽しめてちょうどいい日和です」
とごあいさつさせていただきました。
いくつかの競技に参加させていただきました。
宇品地区も内港地区の整備が進み、
小学校も1000人規模の大規模校で、
さらに未就学児も多くなっていると実感しています。

おこがましいようですが、この地区が良くなること、
良い生活を提供すること、災害を未然に防ぐこと、
が私の重大な使命であると自覚しています。
充実した一日を過ごすことができました。



●●2008年9月29日●●


「建設委員会。 」

朝10時半から建設委員会。
今日は、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)について質問しました。

総事業費7500億円かけて平成11年5月に開通したしまなみ海道は、
来年で10年を迎えます。
一番通行量の多い因島大橋橋上で一日平均13000台が利用しています。
平成17年10月1日の道路関係四公団民営化で、
本州四国連絡高速道路株式会社(広島県は約3億円出資し、3.7%の株主)と、
独立行政法人に本高速道路保有・債務返済機構に分割されました。
そしてこの機構に広島県は、毎年53億円出資しています。
これは平成34年まで続きますので、
広島県は約1300億円の出資を20年近くかけて行うことになります。

一方でしまなみ海道沿いの島々や、広島県と愛媛県の都市間を結ぶ航路事業者は、
事業撤退か縮小を余儀なくされています。
現在進められている通行料金の値下げや、
燃油・諸物価高騰によるコスト高で経営状況はさらに悪化しています。
「何らかの対策を」と、全日本海員組合の皆さんからも要請を受けています。
民主党は高速道路の無料化を掲げていますが、仮にこれが実現した場合には、
必要かつ十分な雇用対策を実施するようすでに要請を行っています。

午後は事務所で原稿書きの後、
5時前には三菱重工労組広島支部の年度最終委員会で
ごあいさつさせていただきました。
6時過ぎには広島市東区の佐々木 寿吉広島市議の副議長就任祝賀会
に出席しました(ホテルグランヴィア広島)。



●●2008年9月30日●●


「連合広島2008〜2009年政策・制度要求勉強会。 」

8月30日に連合広島2008〜2009年政策・制度要求討論集会に参加しましたが、
今日はその内容につきまして民主県政会と公明党議員団で勉強会を行いました。
毎年恒例の勉強会です。「市民・県民の声を聞く」と漠然と表現しますが、
当然一人一人の意見を全て聞くことは不可能です。

こうして連合広島傘下の労働組合の皆さんが、
組織的にその意見を集約されたわけですから、
非常に大きい声であることは間違いありません。
さらに労働組合がまだない会社の皆さん、中小企業で働く皆さん、
派遣社員、パート・アルバイトの皆さん、
個人事業主の皆さんと労働形態によっても多種多様な異なる声があります。
そのこともしっかりと意識しながら、要求実現に向けて頑張って参ります。



●●2008年10月1日●●


「業界団体対策。 」

総選挙が近づいて、今民主党の業界団体対策に取組んでいます。
業界団体とは、例えば農協とか医師会とか職種ごとに組織された連合体で、
昨日の連合広島と同様、広島県や広島市に対して
定期的に要望活動を行われています。

従来こうした団体は政権与党すなわち自民党べったりの組織で、
あまりアプローチしてきませんでしたが、
今回の総選挙は「政権交代」を目指すわけですから、
こうした業界団体にも推薦依頼を行って
少なくともごあいさつぐらいにはうかがっておかないと、
と150団体あまりをピックアップして、
手分けして訪問しているわけです。
政権交代が実現すれば、
当然われわれが業界団体の皆さんの声を積極的に聞いて
政策に生かしていく必要があるわけで、
そこには大きな責任が伴うことになります。
推薦をいただけるかどうかも大事ですが、
まずはごあいさつをと張り切って回っています。

午後1時からは会派三役会。2時からは会派総会と続きました。
9月県議会も3日が最終日です。



●●2008年10月2日●●


「少子化人づくり対策特別委員会正副委員長勉強会。」

午前中は業界団体あいさつまわり。
午後1時から少子化人づくり対策特別委員会正副委員長勉強会でした。
広島県では、出産数や合計特殊出生率等の数値に上昇傾向が見られ、
他県比較でもその伸びは注目に値します。

この傾向が少子化対策や子育て支援策の成果なのかどうか、
是非検証してくださいと当局に申し上げました。
4時からは会派総会。終了後会派懇親会。



●●2008年10月3日●●


「9月定例県議会 閉会日。 」

今日は閉会日です。10時半には議場へ。
補正予算、条例案その他の議案も可決され、意見書6本も可決されました。
ただ今日の最も大事な報告は、
議事の最後に行われる議長による閉会のあいさつでした。
いつもはほとんど注目されない型どおりのあいさつで終わりますが、
今回は「広島知事選対策費疑惑に関する報告」が
このあいさつの中に盛り込まれることになりました。

この中で議長は、
県議らの実名を含む広島地検の訴訟記録の開示については、
地裁の開示決定を受けたものの、県議会の個人情報保護条例や、
調査を依頼した弁護士の見解に基づき公表すべきでない、としました。
これは、「1997年の知事選で県議に対策費が渡された事実は認めがたく、
知事後援会の使途不明金などの新事実も確認されなかった」
とする第三者(弁護士に依頼)による調査結果に基づくものです。

捜査権限の全くない中での事実解明が困難なのは容易に想像されますが、
公人である県議会議員の個人情報保護について、
どこで線を引くべきなのかは争点として残ると私は思います。
実際には一部マスコミによってこの実名は広く報道されており、
2007年4月の県議選では大きな争点になったのも事実です。
公人として県民に公表されるべき情報と、
私人として守られねばならない個人情報と、
その線引きについては未だ明確な判断は示されていません。

今後は当事者や、
この決定に不服とする第三者による訴訟上での決着
ということになると思います。

ただ重要なのは、
「事実は認めがたい、新事実も確認されない」としても、
これはクロではないということで、
シロであるという証明もなされたわけではありません。
「事実の不存在の証明は悪魔の証明」と刑事訴訟法上も言われるとおり、
シロである証明ほど困難なものはありません。
それでもグレーというあいまいな状態で
この問題は放置されることになるわけで、
私自身は本当に残念な結果だと思います。

この間、調査会による調査や、
証人喚問や資料の提出が求められる100条委員会設置の検討、
この度の第三者による調査と考えられる事実解明への努力は行ってきました。
それでも結局グレーのままの放置という結論です。

今後は事件当事者の側から「新たな事実」が出てくるかどうか、
が問題ですが、
それと同時に県政への信頼回復という課題も
われわれには突きつけられています。
知事の任期もあと一年余りです。
この一年今まで以上に頑張らなければなりません。



●●2008年10月4日●●


「 「福島 正則 広島改易事件」。 」

朝自主トレ(元宇品コース)の後、午前中は事務所で原稿書き。
午後からは、高校の先輩が主催するパワーアップ勉強会に参加しました。

今日の講師は、NHK広島放送局の垣東 大介ディレクターで、
NHKの人気番組「その時歴史が動いた」で先日放送された
「福島 正則 広島改易事件」のお話です。
番組制作の苦労話から、福島 正則の人物像に迫っていく迫力から、
大いに知的好奇心を刺激されるお話でした。

一般的な福島 正則像は、
羽柴 秀吉と縁戚という以外は生まれ育ちも卑しく武闘派で単細胞、
深い思慮ができず結局は豊臣家の裏切り者で、
しかも徳川幕府に粛清された典型的な戦国武将というものでしょう。
私自身もそれくらいのイメージしかなく、
広島の歴史にとっては取るに足りないと考えていた一人です。
しかしこの番組は福島 正則を、

「広島を作った男、義理と人情を前面に体育会系のリーダーシップを大いに発揮し、
人望を得たが、その成功と没落は戦国時代と江戸時代を画する重要な事件だ」
としています。

そして番組のクライマックスである「その時」とは、
「広島城の無断修復と、それを理由に改易を命じられた時の正則の対応」です。
もし正則がこの時改易を命じた徳川 秀忠に一矢報いようと、
広島城に集結した兵を持って一戦に及んでいたら、
秀忠にとって天下分け目の「第二の関が原」になっていたのではないか、
というものです。
しかし正則はこの改易に応じ、
広島城に立て籠もった家臣は抵抗なく城から出て行きます。
この決断に、旧時代のリーダー像の限界と、
守るべきものが多くなった戦国武将の濃い家臣・家族関係を感じました。
身につまされる、現代にも通じるこうした課題、
時代の転換期に生きることの残酷さを考えさせられます。

残念ながら正則は、信州高井野(川中島付近)に改易後5年で他界します。
彼が守ろうとした家族も、幕府の許しなく荼毘に伏したとの咎で領地没収、
その9年後に弟高晴も蟄居先の伊勢で死去します。

番組の最後に広島市の本通りの賑わいが出てきます。
この本通りを商業の中心地にしたのも、
その真ん中に胡子神社を建立したのも福島 正則です。
広島市の繁栄の基礎はこの時代に造られたといってもいいでしょう。
約20年の短い統治と、その功績を
後世の私たちはもう一度振り返る必要があるのではないか、と思います。




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